たこ焼きはお好きですか?その2

昨日アップした友達の小説の続きです。
前半を読んでいない人は7/31のを読んでからね!


たこ焼き  後編


何で後藤典昭と私が?とか寺路ってこんな顔してたっけ?とかいぶかる淵野さんを何とか近くのファミレスまで連れ込んで、エボラ出血熱たこ焼きから、ウイルス学者の脳治療のためのバンド作りのためのメンバー募集のところまで、一気呵成に説明すると、淵野さんは暫く考え込んだ後に、「いいわ、ボーカルね、どうせ今何もしてないし」といってくれた。こうしてあの不幸なウイルス学者救済バンド、『パラダイス銀河』が結成され、曲目は、万人に受けが良いものが良かろうと、Hysteric Blueの『春―spring―』に決定された。 

 練習は市内の『ホリデー』というスタジオを借りることにした。私は修学旅行前夜の学生のように、ドキドキわくわくしていた、久しぶりに目にした淵野さんは、中学時代の面影を残しながら、すっかり大人の女性としての魅力に満ちて、その姿が私の古い日の恋心に、再び火を取り戻し、そのうえもう一度こうして一緒に、しかも同じバンドというもっと近い間柄でいられるようになったからだ。とりあえず初練習の日、三人は機材をセットし終えた後、互いに目線でけん制しあいながら、じっと動かずにいた、まだ互いの実力が、まるで分かっていない以上、うかつには動けない。しかし、淵野さんが、ついに緊張に耐え切れず、マイクに向かって、「ファオ!」と叫んだ所から、私たちの『春―spring―』の即興演奏が始まった。凄かった、凄すぎる。こんなにもみんなでたらめだとは・・。たこ焼き親父は、「必殺、ギタースクラッチ!」といいながら、ガットの端から端までピックを走らせ、ギュイイィィィンという音を最後まで繰り返し鳴らし、私はYOSHIKIのドラムソロの中で、練習した奴を繰り返し打ち、淵野さんはそんな私たちのバックバンドに無理やり合わせようとしていたが、やがてこの不毛さに耐え切れなかったのだろう、途中から歌声は、泣き声に変わっていた。

 ありていにいうと、私もたこ焼き親父も楽器はまるで駄目だったし、(たこ焼き親父なんか途中、「ドラムもいいなあ、俺、今からドラム練習しようかな、」とまでいい出す始末)『春―spring―』のスコアノートさえ持っていなかったのだ。完成されたバンドだとばかり思って来た淵野さんが泣き出すのも道理だった。泣き続ける淵野さんを自宅までたこ焼き親父のワゴンで送ってから、私はいった「これでまた、ボーカル募集始めなきゃな、家帰って寝る前に、ちょっとウイルス学者のお見舞いにいかね?」

 ウイルス学者の病室に案内された私とたこ焼き親父は、病室の中から、すすり泣きの声が洩れているのに気が付いた。おそらく彼の妻子だろう。私にはわからない言葉で嘆いていた、しかし悲痛な響きは確実に伝わってくる。バンドの目的が、ウイルス学者救済から、いつしか淵野さんと一緒にいることの口実に変わっていた私は、その光景に強く胸を打たれた。「・・ごっちゃん、朝寝は中止やな」たこ焼き親父のハートにも、そろそろ火が付いてきたみたいだ。

 その日の深夜、昼間短い仮眠を取っただけの私とたこ焼き親父は、とりあえずボーカルが何時来ても、そしてどんな奴が来ても大丈夫なように、練習することにした。ありていにいうと、スコアノートを見ても、それが何の事だか分からないレベルの私とたこ焼き親父だったが、粘り強くずっと練習し続けた。そして、夜が明ける頃には、何とか曲の形にだけはなっていた。

 と、そのときスタジオの扉のところから、パチパチと拍手が聞こえた。ふりかえると淵野さんがいた。「真面目にやれば、なんとかできるやん、一日も早く、そのウイルス学者さんを治せるくらい、上手くなろうね」

 それから約三ヶ月もの間、『ホリデー』で三人は練習を続けた。ウイルス学者を治すという当初の目的はそのままだったが、私はもしウイルス学者を治せるまで自分が頑張れたなら、淵野さんは私のことを認めてくれて、彼女になってくれるかもしれないという目標があったし、たこ焼き親父にも、エボラ出血熱入りたこ焼きなんぞ作っていた自分が、まともになって、また店も上手く行くかもしれないという目標が、そして、プロのステージとは程遠いが、自分の歌う場所が出来た淵野さんは、日に日に綺麗になってゆき、私の心をときめかせて止まなかった。

 そしていよいよ自分たちの限界まで、『春―spring―』のコピーが完成したその日、私たち三人は、病院の屋上で、『春―spring―』を、意識の無いウイルス学者に聴かせることになった。ウイルス学者の側では彼の妻子が固唾を飲んで彼の容態をうかがっている。

「揺れる、木漏れ日あーびーふと気づくー♪春風―の奥―思い出すー♪」淵野さんが歌い始めた、必死に演奏しながら、ウイルス学者の容態をじっとうかがうが、彼は何の反応も見せない。「こーいう夢だしもーいーちーどーかーけーたーいーいつか・・・♪」通して演奏してみたが、ウイルス学者の様子は少しも変わらなかった。が、構わずもう一度演奏してみる。

 それから二時間、『春―spring―』を何度演奏したことだろうか、結局ウイルス学者の容態に変化は無かった。医者が難しそうな顔をして言った、「そろそろ、あきらめてくれませんか、これ以上は患者さんやご家族の負担になるだけですよ」ウイルス学者の家族は、その言葉にわっと泣き崩れた。だが、私はまだ納得できなかった、「もう一度、もう一度だけやらせてください!」

 そして最後の『春―spring―』の演奏が始まった。「ゆーきーがやーんーでさーむーさもきーえこーとーしもあーのきーせーつがーくるあー春が来るー♪」もうそろそろ終りだというのに、ウイルス学者は何の変化も見せない、もう駄目か、と、思った次の歌詞のところで、「こーいう夢ならもーいーちーどーあーいーたーいー♪別れーの季節―も好−きーにーなれるー♪」と、淵野さんが歌うと、ウイルス学者の口が開いて、かすかに、しかしはっきりと、こういった「ここ・・こーいう夢なら・・も・もーいーちーどー」その場にいた全員が、雷に打たれたように驚きの声を口々に上げ、医者は慌てて看護士に「君、急いで検査だ」といい、ウイルス学者は院内に又運ばれた。

 数時間後、全ての検査が終了すると、医者は汗を拭き拭きこういった。「いやあ、音楽療法って凄いもんですねえ、患者はまだ口は聞けませんが、脳は奇跡的な回復を見せています。社会復帰できる日も、そう遠くないでしょう。ところで、あなた方に頼みがあるのですが、この病院には、まだたくさんの障害を抱えた人たちがいます。例のウイルス学者さんだけじゃなく、これからはもっと多くの人たちを救ってみませんか?」

 こうして、私たちはその病院に、音楽療法士として雇われることになった。テクはプロに遠く及ばないものの、一人の絶望的な患者を救った実績が買われたのだ。こうして私は無職から音楽療法士に、たこ焼き親父は売れないたこ焼き屋をたたむことができ、淵野さんは、規模は小さいが、好きな音楽で生活できるようになったのだ。

 打ち上げ会の帰りがてら、私は淵野さんを家に送りながら、何時告白しようかと迷っていた。一つのことをやり遂げたという自信が、私を蚊トンボから獅子に変えていたのだ。そして淵野さんの家の前まで来たとき、私は遂にいった「淵野さん、俺、中学のときから淵野さんが好きだったんだ、バンドだって、淵野さんがいたから頑張れたし、これからも、俺には淵野さんが必要なんだ、だから、だから・・」そこまで言って、うつむく私に淵野さんはしゃがんで私と視線を合わせると、「ありがと、後藤くんのきもちはすごい嬉しい、だけど彼女にはなれないんだ、ごめんね。でも、これからも同じバンドのメンバーとして、よろしくね」そういって、ぽんぽんと私の肩を叩いてから、淵野さんは家の中へ入った。

 父も母も、私が音楽療法士として就職できたことを喜んでくれた、と、そこでピンポンが鳴った。「典昭、お客さんよ」出てみると、たこ焼き親父だった、手にはたこ焼きを焼くための道具一式が揃っていた。「いやあ、ごっちゃん、今さっきごっちゃんがふられたのを隠れて聴いててさあ、俺に何かできることは無いかって考えたら、結局、たこ焼きしかないんだよね。この消しゴム(たこ焼き用)のなかには、千二十四個のうち一つに、意中の相手をものにする消しゴムが入っているんだよね。俺、もうたこ焼き屋辞めたからさあ、このたこ焼き器で惚れたこ焼き作って、淵野さんに食べさせてあげなよ、確率低いけど、何度も食べさせていればそのうち絶対当たるからさ、じゃあね」

 果たして淵野さんは消しゴム入りのたこ焼きなど食べてくれるのだろうか、と疑問に思いながらも、それしか手はないので、私はまず、たこ焼き親父の書いたたこ焼きの焼き方マニュアルを、読み始めた。(終)








今日は友達の命日でした。
遺作です。
こんなに前向きなのにね。