たこ焼きはお好きですか?

本日と明日、二回に分けて、ヒロポの友達が書いた小説を紹介するよ。
はじまりはじまり!


たこ焼き

 たこ焼きを買って、店の前においてあるベンチで食べてみたら、たこの代わりに消しゴムが入っていた。店の親父に抗議すると、親父曰く「いや、じつはこの消しゴム、食べられるんですよ」そして親父は、消しゴムが一杯入った籠を手に持ち、パクパクと消しゴムを食べ始めた。と、いきなり親父は「うがッ」とひとこと呻いてその場にぶっ倒れた。そらいわんこっちゃ無いとばかりに、私が助け起こそうとすると、親父曰く、「わしにさわっちゃいかん!実はこの消しゴム、256個に一つ、エボラ出血熱のウイルスが混じってるんや」そうして、親父はぐったりと顔を地面につけて、ときおり痙攣するほかは、何の動きも見せなかった。

 急いで救急車を呼ぼうと、携帯を取り出してみたはいいが、こんなときに限って、電池切れだった。慌てて公衆電話を探していると、ばったりと中学のときの同級生に出会った。「あれ、ごっちゃんやん(私の名前は後藤という)どしたん、こんなとこで」私が事のてんまつを話すと、同級生曰く、「うーん、エボラ出血熱やろ?普通の病院じゃあ治療の仕方が分からないんじゃないかな、そこで都合のいい話なんだけどさ、今、アメリカで一番のウイルス学の権威が、来日してて、俺らの草野球チームに混じって、野球をしているんだ、だから、そのウイルス学者に頼んだら、何とかしてくれるんじゃないかな」

 一も二も無く、指定された河川敷のグラウンドまで駆けつけると、ウイルス学の権威にしては、ずいぶん若い、ブロンドで長身のアメリカ男が素振りをしていた。急いで彼のもとにたどり着き、事情を説明すると、ウイルス学者、流暢な日本語でのたまったことには、「わかりました、でも私にも休暇を楽しむ権利があります、そこで提案なんですが、あなた、私と野球で勝負してくれませんか?ルールは簡単です、あなたはピッチャー、私はバッター、あなたが私から三振を取ればあなたの勝ち、私はたこ焼き屋の治療をします」

 野球など殆どしたことが無い私だが、彼の挑戦を受けるより他、道は無かった。ウイルス学者がバッターボックスに、私がマウンドに立つと、私は大きく振りかぶって、渾身の力を込めて、ボールを投げた。と、ボールはストライクゾーンを大きくそれて、ヘルメットをつけていなかったウイルス学者の頭に、直撃した。

 ぶっ倒れたウイルス学者のところに、慌ててその場にいたみんなが駆け寄った。ウイルス学者は、両目と両耳、鼻の穴と口から大量に出血し、ピクピクと痙攣を起こしたまま、じっと動かない。誰かが、「どうするんだよ、人殺しだぜ、これ」といった。

 慌てて救急車を呼んで、ウイルス学者を病院へ運ぶと(本当ならたこ焼き親父も病院へ運ぶのが本当なのだろうが、そのときの私はたこ焼き親父のことはころっと忘れていた)色んな検査の挙句、病院の先生のいうことには、「余りにも脳の損傷がひどすぎます、何とか自発的に呼吸は出来ますが、それだけです。彼は一生何の意思疎通も出来ないまま、ここで入院生活を送ることになるでしょう」

・ ・もとはといえば、誰が悪いんだろう、あんなデッドボールを投げた私か、それとも野球の勝負を申し込んできたウイルス学者なのか、もっといえばそもそもの要因となった、エボラ出血熱たこ焼きを作ったたこ焼き親父なのか、私が相変わらずたこ焼き親父を医者に見せる事を忘れて、土手で一人、暮れなずんでいると、「おーい!」といいながらでぶっちょの中年親父がやってきた。よく見ればそれは、昼間のたこ焼き親父だった。「たこ焼き親父、エボラ出血熱はもう治ったのか?」「ああ、その事やけどな、実はあの消しゴム、五百十二個に一つ、エボラ出血熱解除の消しゴムが混じっとるんや、もう平気やで、それよりも、詳しい事情、ごっちゃんの友達から聞いたで、気の毒やなあ、俺が脳の治療できる消しゴム(たこ焼き用)作れたらなあ」こんな事態になっても、まだ消しゴム(たこ焼き用)に頼ろうとするたこ焼き親父に、私は腹が立ってきた。「元はといえば、自分のたこ焼き屋が流行らないもんだから、世間を恨んで、地味にウイルス入りのたこ焼きなんて作っている、駄目人間のあんたが悪いんだろ、なんとかしろよ!」すると、たこ焼き親父は、駄目人間だの流行らない店だのといわれたのにむかついたのだろう「俺が駄目人間なら、ごっちゃん、あんたはなんや、ごっちゃんの友達から聞いたで、せっかく親父のコネで入社した会社も、研修の初日でギブアップして退社したそうやないか、人の事言われへんで!」暫くそうして、夕焼けの中、二人で罵り合っていたが、やがて互いに空しくなって、止めた。

 しばらく二人でうなだれたまま暮れなずんでいると、不意にたこ焼き親父が「そうや!音楽療法や!」と叫んだ。「音楽療法?」「そうや、あんな、俺以前にNHKの特番で、音楽で奇跡的に呆けなどを治しよった番組見たことあるねん。で、俺も昔バンド組んでて、ギターやってたことあるねん、ごっちゃんも何か楽器出来る?」「ドラムなら少し・・」昔、X−JAPANのYOSHIKIに憧れて、ドラムセットを一式購入して、近くの土手で練習していたときがあったのだ。「そんなら話は早いやん、二人でバンド組んで、早い所そのウイルス学者さんの脳みそ治したったろ!」

・ ・でも二人じゃあ少ない気もするし、油ギッシュ中年男のたこ焼き親父とヘタレ駄目人間の私のコンビでは、ビジュアル的にキツ過ぎるだろう。何かこう、華が無いとな・・と考えているうちに、淵野さんの事が、頭をよぎった。

 淵野さんというのは、私の中学のときの同級生で、私の初恋の対象であった。だが、当時内気だった私は、淵野さんに話しかけることも出来ずに、気づかれぬようそっと横顔を眺めたり、淵野さんの友達から淵野さんの写っている写真を譲り受けるなどして、一人胸を焦がしていた。そんな淵野さんの将来の夢は歌手であった、卒業アルバムの、『将来の夢』欄に淵野さんはそう書いていたのである。淵野さんと私は高校は別々になり、私は別の学校で、別の人を好きになっていた。淵野さんが高校卒業後、歌手になる夢を叶えるために、東京に行っていたが、夢破れて、最近、地元大分に帰ってきたことを人づてに聞いたのは、つい最近のことだ。雑誌やインターネットの掲示板等でボーカルの募集をしても良かったが、どんな人が来るのか分からないし、いつ来るのかもわからない、その点、淵野さんなら、すぐにでも連絡が取れるし、夢破れたりとはいえ、歌もルックスもそこそこいけるだろうと、私はふんだ。「せっかくだから、もう一人メンバー入れようぜ、たこ焼き親父、悪いけど今から付き合ってくれ」

 次の朝早く、中学時代に仕入れた淵野さんデータを頼りに、淵野さんの家を探し当てた。何の躊躇も無く、私はピンポンを押す。あのシャイな中学男時代の私では考えられなかったことだ。そんな私も、今や二十代半ば、年齢とともに、人の面の皮は厚くなる一方である、加齢が功を奏すのは、この点だけだろう。「はい、何ですか?」面の皮に多数のしわの刻まれたおばちゃんが、ピンポンに応じて出てきた。おそらく淵野さんのお母さんだ。「あの、淵野さんの中学生時代の同級生の後藤典昭というものですけど、ちょっと中学生時代の担任の寺路先生が、淵野さんに用があるというんで、案内してきたんです」そうして私は、一晩かけて私と淵野さんの中学時代の担任の先生に似せてメーキャップしてきたたこ焼き親父を前に出した。「どうも、寺路です。実は今度の大晦日に中学の同窓会を開きたいと思うんですが、地元にいる後藤くんと淵野さんに、幹事の役を勤めてもらいたいと思いまして、やってきました、悪いんですけど、淵野えみ(淵野さんの本名)さんを呼んで貰ってもいいですか?」




つづく