子犬のプンプン

 今日のお話はわしの一応の現住所、あの世で飼っとる犬のお話。










 その犬と出会った時、犬は死後の世界にやって来たばかりだった。

 ここは「あの世」だというのにすでに全身傷だらけ。埃と煤にまみれたまだら模様の体からは白犬なのか黒犬なのか一見しただけでは判別できなかった。



 自宅に連れて帰り、ぐったりとしている小さな体に昨夜の残り湯をかけてやると、傷が痛むのか、酷く暴れた。やっとのことで嫌がる犬を洗い終えると、結局、犬は白と黒のまだら模様であることが判った。





 犬は地下鉄の奥から吹いてくる風のような臭いがした。数多の人間の呼吸と体臭、無数の機械の排気を一緒くたにした臭いだ。この荒涼とした臭いを、私は生きている時に幾度となく嗅いだ事がある。


 鼻から胸に吸い込むと思い出す。昭和の終わりの10年を少年として田舎で過ごし、20世紀末を跨ぎ、上京してからは平成不況の中をがむしゃらになって働いた。平成が終わり、妻と出会い、子を授かった。子は子を産み、初孫を授かった翌年に私は癌で死に、ここへ来た。生きている間、私は夢を追い続けたが、一生の内に何も成し得る事は出来なかった。




 私はこの犬から漂う空虚な臭いが苦手なのだが、深手を負いつつも次第に懐きだす犬を見捨てる訳にもいかず、そのまま一緒に暮らす事にした。
 それに私は知っていた。惨い死に方をした者からは、死後しばらくはこの空虚な臭いが漂う事を。



 幾週間かが経ち犬から臭いが消えかけた頃、今にも千切れそうな首輪に付いた小さなプレートを手に取り見ることができた。
 そこには、



 プンプン



とだけ書かれており、ようやく犬の名前を知ることができた。
 しかし、


「プンプン、おいで」


と、名を呼んでも飼い主である私の方を見向きもしないのであった。
 ところがこの犬は腹が減ると、


 プ〜ン、プ〜ン


という間の抜けた鳴き声を出し、体を私の臑に擦り付けて甘えるのだった。
 犬はよく見ると愛嬌のある顔をしており、可愛らしくも思えた。恐らく元の飼い主はこの鳴き声を聞いて名前を付けたのだろう、と考える事にした。




 一方、犬は癇癪持ちでもあった。餌は私の残り物に湯を掛けふやかしたものを毎日決まった量与えていたのだが、日常に何か気に入らない事があると餌には一切、手を付けないのであった。飼われている身でありながら、自尊心の強い犬なのであった。



 また、いつもは決まった時間に決まった場所で用足しをするのだが、機嫌の悪い時にはいつの間にか私の革靴の中や畳んだばかりの洗濯物、買ってきて袋に入ったままの食品類などに大小構わずかけておくという陰湿な悪癖を持っていた。躾の為と思い叱りつけすぎると決まって歯をむき出し、


 プン! プン!


と、どこから出しているのか判らない声で夜中いつまでも鳴くのだった。




 そして、癇癪を持った時はまた、あの荒涼とした臭いが漂い出すのだった。




 犬のあまりの横柄な態度にたまりかねた私はしばらく犬に構うのを止すことにした。すると次第に犬はぐったりと動かなくなった。常に餌は餌箱にきちんと清潔なものを取り替えてやったが、食事をまったく取らなくなり、頭を撫でてやると歯をむき出し、


 プン! プン!


とまたどこから出しているのか判らない声で吠えるのであった。




 ある時、私が手入れしている庭の花が荒らされていた。犬はまだ私の事が気に入らないらしく、いまや悪事ばかり働くようになっていた。




 私は自分の庭にたくさんの花を育てていた。ここでは四季折々の花が咲き乱れ、誰しもが私の庭を眺めてはため息をつく程であった。いつ頃の話か判らないが、聞いた話によると、何万年、何億年も前に数粒の種が生前住んでいた世界に落ちたことがあったという。それまでそちらは花の無い世界だった。しかし今や数え切れぬ程の花が満ち溢れている。元々はこちらの世界の物だった花が、こうして増えていったのだ。



 死に花はよく似合うと思う。



 私が花を愛する理由はそこにある。
 そして死後の世界の花は、美しい。犬はそれを荒らしたのだった。





 ようやくまだら犬を見つけ出すことができた。もちろん叱りつける為だ。私が側に近付き、怒鳴り声を上げようとしたその時だった。
 犬からあの空虚な気分にさせる荒涼とした臭いが消えており、変わりに様々な花の香りがしている事に気が付いた。



 フリージア、チューリップ、サクラ、ツバキ、キンモクセイ



 バラ、ショウブ、スイレン、コスモス。



 犬は私の方に駆け寄り、うれしそうに尻尾を振りながら、


 プン! プン!
 プン! プン!


と吠えていた。
 犬の口には私の庭に咲く様々な色の花弁やその蜜、花粉などが付いていた。



 それから私は犬に自分が育てた花を与える事にした。
 随分気が付かなかった事だが、出会った頃はまだ犬は子犬だったようだ。今ではあの頃の5倍程の大きさになり、たくさんの餌と、たくさんの花を食べる。だが、死後の世界ではそれこそ死ぬほどたくさんの花が咲き乱れている為、いくら食べられようとも構わないのだった。


 もちろんプンプンは今も変わらずプンプン匂うし、プンプン怒ることだってあるのだが、以前よりかは今の生活が気に入っているようだ。








 これでお話はおしまい。
 おやすみなさいまし、じゃ。