熊谷アパート最終回

 家賃通帳をいちべつした彼はこれまで見たことも無い恐ろしい顔をし、僕に食って掛かった。

「引越しするの? 家賃3ヵ月分ちゃんと払ってくださいよ!」

 は? え? なに?
 退去するときに3ヵ月分払わなきゃならないんですか?

「当然でしょうがぁぁ!」

 ちょ! 待ってください。先に言ってくださいよ! 大家さん、困りますよ・・・。




 さようなら。
 先日、ボロアパートを解約するために、家賃通帳と鍵を持って大家を訪ねた。僕の住んでいたアパートの大家は完全にボケ老人で、これまでも幾度無く家賃のおつりを間違えたり、隣の中国人と言い争いの最中に「妹は八王子です!」という謎の言葉を叫んだりしていた。あと良く覚えているのは、隣の中国人が引っ越して、部屋の掃除してたのかな。女性の声で
「おじいちゃん、釘抜き持って来て!」
と聞こえてきた。大家は
「は?」
 耳が遠くて聞き返していた。
「おじいちゃん、釘抜きッ!」
「何?」
「だーかーらー、釘をぐいーって抜くやつよーッ!」


「・・・・・・何言ってるかサッパリわからん」


 90歳、越えてるのかな。男性です。つまりおじいちゃん。共益費を払えども掃除はしないし、便所の電気は切れっぱなしだし、勝手に鍵開けて部屋に入るし。共同玄関の靴と上履きスリッパも勝手に捨てられたことあったな。でも、水木しげるに似てて好きなんだ。


 晴れ間をぬって最後の挨拶に出かけた。
ちょうど玄関でゴミの整理をしていた大家に遭遇し、もう最後だからと思いさわやかに挨拶をしたのだが、まったく気付いてもらえなかった。

「まったく、弱っちゃうよなぁ・・・・・・」

 無視しているのかそれとも僕には見えない誰かと話しているのか知らんけど、ひとりでぶつくさ言い続けていた。
 僕は彼の背中をポンと叩いて
「あの、引越しの掃除終わりました。通帳と鍵を返却したいんですけど」
と話しかけると、冒頭のようにいきなりブチ切れられたというわけ。



「あのね、家賃払うのは当たり前でしょ! 3ヶ月も滞納して! ふざけんじゃないよ!」


 ええええーー! こないだ家賃払ったばっかりじゃん!
 僕は通帳を大家の手からもぎ取り、もう一度きちんと見るように促した。
 大家はハッとした表情をし、
「あっ・・・・・・あっ・・・・・・あぁ・・・・・・」
 なんやねん。何が言いたいねん。なあ、なあ。しばらく沈黙で待ってやるから言ってみな。

「工藤さんじゃないですか!」

 はい! 最初から最後まで工藤ですけど!

「あーあー、工藤さん。引越しなさるんですか?」
 うわ、だからさ・・・・・・。さっきから・・・・・・。
 いや、さわやかに去ろう。相手はおじいちゃんだし。
「工藤さんね。そうですか。間違えました。すぐそこの部屋の人、家賃払わなくてね」
 いいですよ。分かってくれたんだし。さっきから間違えすぎだけど。
「で、引越し、いつですか?」
 だからさ・・・・・!
 今日! もう! 今すぐ! ・・・・・・です。
「ちゃんと鍵返してくださいね」
 ああああーーー!?
「あの、ちょっと手を・・・・・・失礼しますけど・・・・・・」
 僕は彼の左手を広げ、先ほど渡した部屋の鍵を見せた。
 大家は僕をサイババのように思ったかもしれないが、僕ははたして普通の人間である。


 それにしてもへんなアパートだったなー。